🎬 ひとことで言うと

魂の叫びは聞こえた——ただ、それが映画になり切れていなかった。

ラストの牛舎ライブだけは本物。でもそこに至るまでの密度の薄さが、正直きつかったわ。
結論:映画『ザ・ゲスイドウズ』は面白い?つまらない?
一見すると悪ふざけのドタバタ劇。パンクバンドが田舎に移住して畑を耕す——設定だけ聞けば笑えるコメディに聞こえる。でも宇賀那健一監督が本当に作ろうとしていたものは、クリエイターの生みの苦しみと「どう生きるか」をまっすぐに問う表現者への賛歌だったはずだ。
ラストには瞬間的に体を動かすものがある。ただしその熱は、映画全体を支え切れていない。テーマ自体は魅力的だが、映画化の精度が追いついていない——そう言わざるを得ない。
シュールな演出が笑えるのか怖いのか判断できないまま時間が過ぎ、感情の置き場がないまま終盤に突入する構造は、「ラストの熱量だけでは映画全体を支え切れない」という典型例にも見えた。監督への強い興味かパンクカルチャーへの深い愛着がある人以外に、積極的にすすめるのは正直難しい。
衝動は本物、でも映画としての骨格が追いつかない。
※本ページはプロモーションを含みます。
基本情報
| 配信 | Amazon Prime Video ほか |
|---|---|
| 公開/放送開始 | 2025年2月28日(劇場公開) |
| 上映時間 | 93分 |
| ジャンル | 音楽、コメディ、ヒューマンドラマ |
あらすじと作品の特徴(ネタバレなし)
「THE 27 CLUB」——ジミ・ヘンドリックスやカート・コバーンら伝説のロックスターが27歳でこの世を去ったというジンクスを狂信するボーカルのハナコ(夏子)率いる4人組パンクバンド「ザ・ゲスイドウズ」。アルバムは全く売れず、マネージャーから最後通告として田舎への移住と新曲制作を命じられる。見た目は過激でも根は純朴なメンバーたちは、のどかな村の生活に溶け込み、いつしか畑仕事に精を出すようになっていく。そんな中、ハナコはトメさんから預かった柴犬と向き合ううちに、ある転機を迎える——。
宇賀那健一監督(『転がるビー玉』『みーんな、宇宙人。』)による音楽映画。ギターに多国籍バンドALIの今村怜央、ベースにゴールデンボンバーの喜矢武豊、ドラムに映画製作者としても活動するRocko Zevenbergenと、リアルなミュージシャンを起用したキャスティングが話題を呼んだ。犬の声を斎藤工、謎のカセットテープの声をマキタスポーツが演じるほか、遠藤雄弥、伊澤彩織らが脇を固める。
第49回トロント国際映画祭ミッドナイトマッドネス部門への正式出品、第53回モントリオール・ヌーヴォー・シネマ映画祭 観客賞、第1回ロンドン国際ファンタスティック映画祭 長編部門最優秀作品賞など、国際映画祭での評価を重ねた一作だ。
正直レビュー:ここが良かった・悪かった
まだしも機能している点:瞬間的な熱と、ミュージシャン起用の質感
- 牛舎ライブは瞬間的に機能する終盤の演奏シーンは、粗削りながら一瞬だけ画面が動く。観客はマネージャー、トメさんの息子と孫の三人だけ。それでもパンクが鳴るという逆説は、テーマとして読めば面白い。ただその逆説を成立させるだけの積み上げが前半にないため、「突然の熱」として処理されて終わる。
- リアルミュージシャン起用は正しい判断だった——が、それだけ今村怜央(ALI)、喜矢武豊(ゴールデンボンバー)という実際のミュージシャンを起用したことで、演奏シーンの質感は俳優だけでは出せない水準になっている。キャスティングの判断自体は間違っていない。ただそれがシナリオの薄さをカバーするほどの力にはなれていない。
気になった点:シュールさの着地点が定まらない中盤
- 中盤の展開がほぼ機能していない田舎移住後、畑仕事や村人との交流が続く中盤は、コメディとしても感情ドラマとしても解像度が低い。「何かが起きそうな気配」だけが積み重なり、それが回収されない場面も多い。この密度の薄さは、積極的にすすめにくい理由になっている。
- 「喋る犬」の演出が宙に浮いている斎藤工が声を演じる犬「ジョン・ケージ」の登場は本作のキーになる演出だが、ハナコの幻覚なのか現実なのかが意図的に曖昧にされている。シュールリアリズムとして機能させるには、その不条理が笑いか恐怖か感動かどこかの感情に着地する必要がある。本作ではその着地点が定まらず、困惑だけが残る場面が多い。
向いている人・向いていない人の特徴
向いている人
- 宇賀那健一監督の作風にすでに親しんでいる人
- パンク・オルタナカルチャーへの強い愛着がある人
- シュールなコメディの先に本気の感動があるタイプの映画が好きな人
向いていない人
- 物語の起伏や感情の導線をきちんと追いたい人
- シュールな演出の着地点が見えないと置いてけぼりを感じる人
- 「売れないバンドの再起」という設定に王道の感動を期待している人
深掘り考察:「ゲスイドウ」から咲いた花はどこへ届くのか
「THE 27 CLUB」という呪縛の正体
ハナコが「27歳で死ぬ」ことにこだわる動機は、作中で明確に説明されない。しかしその執着の構造を分析すると、「死」そのものへの願望ではなく、何者にもなれない自分が「天才の記号」を身にまとうことで存在価値を証明しようとする行為として読み解ける。
ジミ・ヘンドリックス、カート・コバーン——彼らは27歳という若さで死んだことで、神話化された。生きていれば凡庸になったかもしれない可能性が、死によって永遠に「天才」として封印された。ハナコはその「封印」に憧れている。売れない自分が生き続けることへの恐怖を、「27歳で死ぬ予定」という物語で覆い隠しているのだ。
牛舎ライブで自分たちの音楽が目の前の三人に届いた瞬間、彼女は「レジェンドと同じ記号の死」を必要としなくなる。生きて泥臭く音楽を続けることが、死の神話より強くなった——それがラストシーンの静かな核心だ。ただその変化が、観る者に十分伝わる感情導線として描かれているかというと、正直心もとない。
牛舎ライブの逆説——テーマとしては読めるが、映画としては機能しきれていない
ハナコが夢見ていたのはグラストンベリー・フェスティバル——世界最大規模の音楽フェスだ。それが最終的に「牛舎」という真逆の場所に着地することで、本作は「音楽の成功とは何か」という問いをひっくり返そうとする。
観客はマネージャー、トメさんの息子、孫の三人だけ。音楽的な文脈も、バンドの背景も、何も知らない人々だ。その逆説はテーマとして読めば面白い。ただ「面白いテーマ」と「機能している映画」は別の話だ。
この逆説が感動として成立するためには、「フェスへの渇望」と「田舎の温かさ」が等しく積み上げられている必要がある。前者は描かれているが、後者の積み上げが圧倒的に不足している。牛舎ライブが「突然の熱」として処理されてしまっている原因はここにある。テーマとラストの映像の間に、映画としての橋がかかっていない。
「スメルズ・ライク・ゾンビ」とトメさんの増殖
ラストで演奏される「スメルズ・ライク・ゾンビ」——ニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」をもじったこの曲のサビに合わせて、ゾンビ化したトメさんが増殖していく映像演出は本作のクライマックスの核だ。
犬が喋り、カセットが語りかけるこの映画の世界では、死者が蘇って客席を埋めることも「あり得る現実」の延長として受け取れる。現実か幻想かを問うよりも、その境界自体をずらしていくのが宇賀那監督の文法であり、ここでは曲名と映像が一致した瞬間として機能している。
「喋る犬・ジョン・ケージ」は何を意味していたのか
犬の名前「ジョン・ケージ」は、4分33秒の沈黙で知られる実在の前衛音楽家から取られている。「音楽とは何か」「沈黙は音楽か」を問い続けたケージの名を冠した犬が、ハナコに語りかけてくるという設定は、作家性としては面白い。
この「喋る犬」は、ハナコの内なる衝動——理性や常識が抑え込んでいた「野生の音楽欲動」を外部化した存在として機能するはずだった。ジョン・ケージ(音楽家)が「音楽の常識を破壊した人物」であるように、犬のジョン・ケージもハナコの「売れる音楽を作らなければ」という常識を破壊するトリガーとして位置づけられている。
演出の意図は伝わるが、その不条理が笑いにも恐怖にも感動にも着地しないまま宙に浮いているため、演出意図は理解できるが、映画として感情へ変換する演出設計までは届いていない。斎藤工の声の演技自体は悪くないだけに、もったいない。
バンド名「ゲスイドウズ」に込められた自己定義の逆説
「下水道」——社会の底を流れるもの、汚いもの、誰も見ようとしないもの。バンド名はそのまま、社会不適合者として吹き溜まりに集まった4人の自己定義だ。都会の音楽シーンでは売れないゴミ扱いされ、見た目の過激さで村社会からも浮く。彼らはどこへ行っても「ゲスイドウ」にいる。
しかし本作が面白いのは、その「ゲスイドウ」を克服しようとしない点だ。一般的な音楽映画なら、泥臭い地下時代を経て洗練され、スターになっていく構造を取る。しかし『ザ・ゲスイドウズ』は逆だった。彼らは最後まで不器用で、売れず、田舎の牛舎で演奏している。
それでも映画は、「下水道にいるままでも、人の心を動かすことはできる」と言おうとしている。成功して上へ行く物語ではなく、社会の底にいるまま鳴らした音が、誰かへ届く瞬間を描こうとしているのだ。
ラストの牛舎ライブが象徴的なのもそのためだろう。ハナコが夢見ていたのは巨大フェスのステージだった。しかし実際に辿り着くのは、牛の匂いが残る薄暗い牛舎であり、観客もたった数人しかいない。それでも音楽は鳴る。むしろ「何者かにならなければ価値がない」という神話が剥がれ落ちたあとだからこそ、その音は初めて地面に足のついたものとして響き始める。
ただ、その「泥の中で鳴る音」を観客に実感させるには、中盤の積み上げが足りなかった。テーマとしては強く惹かれるだけに、その泥の質感や生活の手触りを、映画としてもっと体感したかった——という惜しさが最後まで残る。
総評:観るべきか迷っている方へ
観るべきか迷っているなら、正直に言う——積極的にはすすめない。ラストに瞬間的に機能する場面はある。パンクへの愛情も、テーマの方向性も、それ自体は間違っていない。ただ映画化の精度が追いついておらず、中盤のドラマが映画として機能しきれていない。シュールさの方向が定まらないまま時間が過ぎ、感情の置き場を見つけられないまま終盤に突入する。
宇賀那健一監督の作家性に惹かれているか、パンクカルチャーへの強い興味がある人なら発見はあるかもしれない。そうでない人にとっては、「テーマだけある、映画になりきれなかった一本」という感想に落ち着く可能性が高い。
本作はAmazon Prime Videoで配信中。
プライム会員は追加料金なしで視聴可能です。
※配信状況は変更される場合があります。最新情報は公式サイトをご確認ください。

音楽映画って途中の過程が大事なのに時間稼ぎにしか見えなかった


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